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2009年 02月 16日
先日友達の家で本棚を見ていたら、
前から読みたいと思っていたこれを発見したので、ラッキー♪とばかり借りてきた。 別居中のオトンが時々姿を見せる家庭での様子が、 子どものころからオカンが癌で亡くなるまでにわたって書かれている。 リリーフランキーが子どもの頃知らなかったというオトンの職業はヤ〇ザなのだが、なんかこのオトン、私の父にちょっと似ていて、もう20年近く会っていない父のことを思い出した。 私の父は大手企業に野球で入った人だった。 ピッチャーだった父は、入社してほどなくひじを痛め、野球ができなくなった。 それからは、普通に会社員として働いていたけれど、 高卒の父は、父曰く「しょーもない大学を出たアホなやつ」以上の出世をすることもかなわず、 いつも文句ばっかり言っていた。 お金にルーズで、結婚前から母にお金を借りたことがあり、 祖母(母の母)には結婚を反対されたらしい。 案の定、結婚して1年後に私が生まれる時には出産費用を使い込んでいて、 祖母がお金を出してくれたと聞いたことがある。 私の育った家は、私の両親の行く末を心配した祖母が、いずれ私たち一家と同居するつもりで建てた今で言う二世帯住宅だった。 結局そこにはその後結婚した母の兄夫婦が住むことになり、 祖母と同居することはなかったが、 祖母は何かというとうちに泊まりに来て私の世話をしてくれた。 父の借金のことで両親は喧嘩が絶えず、三歳児検診で私が「情緒不安定」とされたことが原因だったのだろう。 父が何にそんなにお金を使っていたのかよくわからないが、とにかくギャンブル好きだった。 パチンコ、競馬、賭けマージャンなどいろいろやっていたらしい。 休みの日はよく寝転がって競馬中継を見ていて、ふと立ち上がり、どこかに電話をかけて、 「2-5お願いします」なんて、妙に丁寧な口調で言っていた。 そんなときの父は大阪弁ではなく、何故か標準語だった。 以前、病気で入院していた友達のお父さんに頼まれて馬券を買いに町中にある馬券売り場というところに初めて行った時、うちの父が電話で馬券を買っていたような気がすると友達に話したら「そんな買い方は知らない」と言われて、父は何か怪しい人々から馬券を買っていたのかもと想像した。 父は、時々私と弟にお土産を持って帰ってきてくれた。 大抵は飲んだ帰りに立ち寄った鮨屋のすしだったり鰻だったりして、 それを夜中に起こされて食べさせられた。 昔流行っていたゲームウオッチや、テレビゲームのはしりである「テニス」ができる大きな家庭用ゲーム機を持って帰ってきたこともあった。 それも新品ではないもので「友達にもらった」と父は言っていたけれど、子ども心になんか怪しい感じはしていた。 結局は度重なる、しかもそのたびに増額する借金にブチ切れた母に離婚を言い渡された。 私は丁度就職した年だったけど、弟はまだ高校生だったから可哀そうだった。 父さえ借金しなければ、もうちょっとましな家庭だっただろうに。 でも、父を恨む気持はない。 借金まみれだったかもしれないけど、いろいろ習い事はさせてもらったし、 エレクトーンは2回も買ってもらったし、塾も学校も行った。 とりあえず生活に困るという体験はなかった。 ただ三歳で診断された「情緒不安定」には三十歳を超えるころまで苦労したけれど。 リリーフランキーが幸せだったと思うのは、しっかりしたオカンがいたから。 おいしい料理で息子の友達を毎日のようにもてなし、 いつも明るく楽しく暮らそうとしていたオカン。 亡くなった後、息子だけでなく多くの人たちに惜しまれたオカン。 そんなオカンの食卓をのぞいてみたかったなぁ、と、 この本を読んだ多くの人が思ったに違いない。
by phriky
| 2009-02-16 21:00
| 本
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